昭和44年4月15日 夜の御理解
中村良一
私達が、こうして、この世に生を受けた以上、それぞれに、神様の願いというものが、一人一人の氏子の上に掛けられておると。そこのところの自覚を作っていくという事が、私は、信心であると思う。いわゆる、それぞれの、使命に生きるとでも申しましょうか。神様の、それぞれの氏子に、願いをかけてござる。その願いというものが、成就していくということが、神様の願いが成就することであり、いわば、神願成就である。
今日、昼ごろから、秋永先生が、大祭の準備の、色んな頼みものがあるために、あっちこっち今日、回って、終わらせてもらってから、ちょうど、四時の御祈念をさせて頂きよる時に、二度目に、ここにやってまいりました。色々、お届けを致しました後に、この二十四日に、久留米の七十五年ですね。久留米教会の、七十五年の記念祭があります。それに、本部の、佐藤先生ですね、博敏先生。佐藤博敏先生が、講師でお見えになる事になっておる。何というても、御道の大建物であり、同時に、今後、意味を、そういう金光教の教団にとって、大切な立場にあられる方ですから。この際、久留米まで見えるのですから、どうか一つ、合楽に来ていただいて、合楽の信心を見て頂きたいと。そういう様な、働きかけをしたいと思うですがと言うて、いう様なお届けがございました。私のほうは、とにかく、見ていただくというても、見ていただく、何があるかと、ここに。ね。私の、現在の信心、また、ここでおかげを受けておる信者さん方の、一つの信心の様相と言ったようなものが、どこに、見てくださいという様なものがあるかと。もっと、本当、そういう事をしなくても、もっともっと、実力を頂いて、本当のおかげを頂いたら、ね。ようはなかろうかと。まだ、時期が、そういう時期じゃないのじゃなかろうかと言うて、話たことです。ね。それでもう、何と言うても、もう、一時でも早く、合楽の信心を見てもらわなければ、誤解を受けておる。合楽の信心というのは、何かこう、拝み信心のような風に見られておる。それでは、御道のためにもならないからと、こう、秋永先生が言われるのです。ですから、と言うて、ほんなら、現在、合楽の信心が、ほんなら、見てくださいというほどしのものはない。自然に、例えば、合楽教会のゴヒレイに、一遍、浴したい、一遍、教会に、側まで来ておるのだから、連れて行って欲しいと、先生自身が仰るような時期が来るだろうと、と言うて、まぁ、話したことです。
で、そんな事があって、先生は帰る。だから、私が、神様へ、その事を、お礼申させていただいておりましたら、いわゆるその、これは、今、私が申します。それぞれの使命と言うものがね。掛けられておる。その使命が、どういうところに、その使命が、私共が、こう言う使命のために、こう言う働きをしなければならないという事を感じさせてもらうところから、本当の信心意欲と言うものが生まれてくると、という様に、教会そのものにも、やはり、使命がある。神様の願がある。ね。今日、秋永先生が言うておられる。そういう様なことに、確かに、今の教団にとって、合楽の信心は、どうでも必要だと。そういう意味合いで、合楽の教会は、そういう使命を持って、合楽の教会が出来たんだと。と、その中心であるところの、私の信心が、そこに、私の使命感と申しましょうか。そういう神の願があるのだから、その願いが成就することのために、おかげを受けなければならないという事をね。思わせて頂いておりましたらね。
えー、私の、豊美と、むつ屋の石井信司さんとが、もう、何かを奪い合って、一生懸命、喧嘩をしておるところ。そして、それがですね。一つも、信司さんじゃなくてから、勝彦のようですもん。いわゆる、兄弟喧嘩をしよるとです。それでいて、実際は、信司さんであり、豊美であるわけです。何を奪い合いしとるかと思うたら、長い、それこそ、巻物の様なものを、その、自分のだ、自分のだと言うて、その、取りぐっちょしよってから、真ん中が、ぷっつり切れたとこを頂いた。それから、私が、その、どっちもその、勝彦と豊美が、居るような感じですね、夢の中で。実際は、信司さんだけれども、実際は、兄弟同士喧嘩しとる。もう、あんた達は、兄弟同士、どういうことから、そういう喧嘩して、しかも、こんな大事なものをあんた、とうとう、二つに、ちぎってしもうて、こらま一遍、こう言う大事なもんだから、表装し直さじゃこててと、私が、その巻物を、言いながらね。二人に、私が、ま、懇々と話をして聞かせたら、二人共、涙を流して、分かったという様なお顔をするけれども、本当に分かったのじゃないという感じですね。そういうお知らせを頂いたんです。
それで、私、そらどういう様なことだろうかと。豊美と信司さんが喧嘩するわけもないし、しかもその、その信司さんが、どうも、勝彦のようである。勝彦のようじゃなく、勝彦なんだ。そのもう、顔だけが、姿だけは信じさんだけれども。はぁ、こりゃ、石井信司と言うのと、大坪豊美と言う、その、名前をね、神様が、繰り替えなされたのだろうと、こう思いました。そして、今、秋永先生が言うておった、その事と、結ぶ着けて考えさせていただくのにですね。大坪豊美と言うのは、大きな広い、豊かな心とでも申しましょうかね。石井信司と言うのは、いわゆる、信じつかさどると書いてある。石井信司、石井と言うのは、限りなくおかげを受ける。井戸から水が、どんどん出るようにね。限りないおかげを受けられるという、そういう意味なんです。それは、どういうことかと言うとです、ね。問題はあの、(少し途切れている)そういう使命がある。あの、そう感じる。ところが、今の大坪総一郎じゃ、今の合楽教会じゃ、まだまだと言うところである。こら、大変な使命。だから、そういう使命感にですね、私が行き、同時に教会が行き、または、その教会にご縁を頂いておる信者さんがです。神徳を受け、教学の上にも、勉強させてもらって、しかも、それをですね。一つも矛盾ではない。相反しない、一つに溶け込んでしまえるような、私は、その、まぁ、いうならば、御理解力とでも申しましょうかね。そういう働きを持っておるのは、こら、私自身、様々な、大きなゴヒレイの立つ教会の生き方とか。また、御本部の、現在の生き方といったようなものを見てから、本当に、私は、そう思うんです。実際。けれども、私共は、まだそれを、示せるだけの実力を頂いてないということ。そこで、なら、私共は、どういう様な信心を、これから、いよいよ、目指さなければならんだろうかと、それをいただいとった事を、今晩、御祈念の時に、頂かせてもらったらね。榊と言う字を頂くんですよ。木偏に神と言う字ですね、榊と言う字は。もうね、私自身が、もっともっと、親心と言うか、神心と言うですね。ほんなら、信司さんと、その豊美。しかもその、信司さんというのは、どうも、勝彦なんですね。いわゆる、兄弟です。どちらだって、金光教の信心です。
例えて申しますなら、今、日本一と言われる様な、何というですか、えー、大阪の泉尾教会辺りなんかはね。大変な、その、ゴヒレイを持っておられる教会なんですね。先生が、大変な、いわゆる、御神徳家である。ね。そすと、例えばほんなら、本部の教団の生き方といったようなものが、何時もその、ここに、何かにらみ合っているような感じなんですね。本部の生き方は、泉尾では、そういうこっじゃ、人は助からんと言うておられるし。または、本部でも、泉尾の生き方というものを、非常にこう、批判的であるということ。ね。そこに、一つになれないものがね、合楽的なものがないからなんだ。ところが、合楽は、あまりにも、まだ、微々なものである。まだ、あまりにも小さいのである。もう、それを現せるだけの、いわば、実力と言うものが無い。ね。そこに、ほんなら、私共は、そういう、例えば、こうじゃないか、あぁじゃないかと言うて聞かせりゃ分かるようなものだけれども。それには、やはり、力が必要なんだ。それには、どういう事かと言うと、もっともっと分からせるために、それではなくてです。私共は、もっともっと、神心を目指しての信心というのがね。榊を目指して信心する、ね。心、気は心と仰るから、ね。神心と言う意味でしょう、榊と言うのは。もっともっと、神心と言うものを育てさせて頂いて、ね。大きな、いわゆる、神愛、神様の心にならせていただいてです。それを、まとめていけれるだけのね、実力を、私共は、養うていかなければならないという事なんです。ですから、お互いがですね、そういう、大きな使命を帯びておる。そういう、神様の願いが、合楽教会に掛けられておるとするならば、合楽教会の信奉者、一人一人の上にも、そういう願いが掛けられておる。
先日、佐田さんのお母さんが、あの、恵介君に、僕は大きくなったら、何になるの。僕は金光様の先生になるち言うた。それで、僕はもう、とにかく、一生懸命勉強するち言う。そして、僕はあの、世界中を駆け回った歩くような金光様の先生になりたいと言うたて、そういうお届けをされるんですよ。ね。ですから、本当に、それが必要なんだ。まぁだ、小学校の、ようやく一年生の恵介君がですね。毎朝、もう、何ヶ月間、朝参りを、一日だって欠かしたことがないんですよ。ね。そして、いわゆる、合楽の信心に、本当に傾倒していく。合楽の信心を身に付けようとしておる。それは、例えば、朝の御理解なんかを頂いてですね。今日の御理解は、どういう御理解じゃったねて言ったらもう、誰よりも、きちっとその、ポイントを外さない様な返事をするのは、驚くくらいです。ね。周りを見回して、本当にこりゃ、信心の天才だと思うくらい。ね。そういう人達が、今、なら、合楽には、育って行きよる。だから、とにかく、私共が、一代で出来ない所は、二代、ね。二代で出来ないところは、三代かかってからでも、まぁだ、金光教そのものが、百十年ぐらいの若い信心ですから。そう早く、もうと言うて、まぁ、秋永先生辺りのように、その、まぁ、いらいらすることは要らん。勿体ない。合楽の信心を、今こそ、分かってもらわなければと。なるほど、そういう願いは持たなければならんどころじゃないけれどもです。ね。そういう私共は、使命があるということが分かったらです。本当に、お互いが、神徳を受けていけれる信心。または、教学の勉強という様なことにも、本気で、おかげを頂かねばいけないという事が分かる。ただ、おかげを頂くという事だけの、小さいことにですね。何時までも、こだわるというかね、そういう、小さい信心から、そういう大きな使命があるとして、私共が、立ち向かわせてもらう信心。ね。そこを焦点にしての信心。そういう、または、大きな正信心の、おかげをもって、みんなが、そういうお役に立ちたいと言う願いと言うものをです。一人一人が持たなければならんといったような事をね。今日は、そういうお知らせを頂き、秋永先生の、そういうお届けをさせていただいてから、そういう、只今、申しますような事を、はっきりこう、感じさせていただくのでございます。ね。それぞれに使命がある。ね。その、使命感に立っての信心。それが、私は、いわゆる、高度なところへ、ね。神様が、いよいよ、喜んで下さるようなところへ、それが、自分の思い、願いと言うものがおかれなければならんという事ですね。どうぞ。